鉄橋下の決闘 (かえでシリーズより)





『またあのコだ』
気がつくといつもかえでを教室の隅から見ている。


―斉藤みこ―
『クラスの中、いや中1の学年中探したってこんな暗そうなコはいないと思う』
極度なおとなしさがかえって目立つようなタイプだ。
かえではみこの視線を感じるといつも苛立ってしまう。
『わたしをバカにしているんだ』
1ヶ月ほど前、授業中に嘔吐する失態を演じたあげく大泣きしたかえでは、それ以前にも増して心を閉ざしてしまった。
元来プライドが高く、人間嫌いで醒めた性格のかえでだが、あのような形で自分をさらしてしまったことが死を思うほど苦痛であった。
しかし人間はそう簡単には死ねはしない。生物としての本能がそれを許さないのだ。いっそ自分を殺そうとする者がいてくれたら、とさえ考えた。
現にみこの視線に反応してしまう。以前のかえでなら誰がどんな意味の視線を送ろうとも平気でいられた。みこごときの視線に反応してしまう、そんな自分などどうなってもいいと思うのだ。
『きっとわたし以下ねとか、ざまーないわとでも思っているんだ』
一瞬みこを睨みつけるとすぐに視線をそらせた。
『フン!たいして勉強ができるわけでもないくせに。みんなの前で吐いたからって、少なくともアンタより成績まで下がることないんだから!』


元々、かえではクラスの中でも疎んじられていた。そこに先月の失態である。陰口を叩かれるのは自然なことだった。気丈な性格で無表情をよそおい聞こえないフリをしつづける毎日だが、プライドを傷つけられるストレスだけはコントロールしようがなく溜まってゆく一方である。


そんなこともあり、ある日かえでは彼女らしからぬ行動をとってしまう。
体育館で1年生の学年集会から引き上げる時、目の前を歩くみこがいた。その儚げな小さい背中を見ていたら、心の闇からサディスティックな気持ちが湧き上がってきた。
他人の事など無関心のかえでだが普段の苛立ちから、みこに足をかけ転ばせたのだ。
人混みの中で無様に転ぶと、回りからも批難の声があがった。
「痛ぇな、このチビ!」
「どけよ!邪魔なんだよ!おらぁ」
倒れたみこにケリをいれる者もいた。
『フン、いい気味!』
かえでは口の端で笑いながら見下した。
ところが、みこの反応はかえでには理解できないものだった。
「篠原さん、ごめんね。足、からんじゃった…」
立ち上がり際にみこが言った。かえでから浮かべていた冷笑が消えてしまう。
『このコ…、わたしがやったことに気づいていたの!』
うすら笑いの消えたかえでに対し、みこは照れくさそうに重ねて言った。
「ごめんね…」


『何?あのコ。どういうつもり!』
かえでにはみこのことが理解できなかった。
『いつもわたしをバカにして見ていたくせに』
マイペースのかえでが他人をここまで意識したことは初めてであった。
『バカにしている以外、何があるっていうの。…きっとわたしを心の狭い女だとか思って余裕でいるんだ!』
「自分以外はみんな敵」であるかえでには他には何も思いつかない。
そんなことを考えていると、またみこが見ていることに気づく。
かえでと目が合うと、みこが少し笑ったように見えた。
『……イジメてやる!』


しかし、人と関わりを持とうとしたことがないかえでは「イジメ方」も知らない。
思いつくのは呼びつけて暴行を加えることくらいだ。仮にみこが反撃にでたとしても負けるような相手ではない。ケンカだって軽く勝てそうだ。
なにしろみこは学年でも最も背が低く、ひどく痩せている。力があるわけがない。実際、体育だってどんくさい。中学生だが、棒を持った幼稚園児5〜6人もいればリンチにできそうだ。
かえでは土曜の学校の後、川原の鉄橋下にみこを呼びつけようと思った。ベタな場所だがうってつけの所を知っていた。
ただ、みこが警戒して来ない場合も考えられたが、まず言ってみないことにはわからない。
ダメな時はまた考えればいい。



「えっ。今日ですかぁ?」
かえでの誘いになんら警戒心はなさそうに見えた。
「はい、ヒマです。必ず行きますねぇ」
拍子抜けするほど簡単であった。
『まさか仲間でも連れてくるとか…。いや、ありえない。このコ友達なんて一人もいないさそうなタイプだし、学校で誰かと話してる所だって見たことなんて…』
みこは「くるっ」と向きを変えて走って行くと、教室のドアの所でまた向きを変え
「篠原さんも、忘れずに来てくださいねぇ」
と、笑顔で手を振り走り去っていった。
普段の暗いみこにはない態度。かえではバカにされていると思った。
『クソガキ!なに笑ってんだ、ボコボコにしてやる!』



かえでが約束の場所に着くとすでにみこは来ていた。みこと会う前に念のため辺りの様子も下調べしたが、人が潜んでいることもなさそうであった。みこは一人でノコノコとやって来たわけだ。
「…待った?」
「いいえ。わたしもさっき来たところですよ」
警戒心のカケラもない笑顔。…やりづらさを感じた。
「お話ってなんですかぁ?…あ、わたしも篠原さんにお話ししたかったことがあったんですよぉ」
「?」
意外な展開だが、考えてみれば言いたい事があるからこれまで見ていた、という解釈もできる。
『まずは話を聞いてからにしてみるか…。ひっぱたくのはそれからでいいや』
「わたしは後でいいから。斉藤が先に言っていいよ」
「ん〜…。まず、座りましょう。こうしてるとなんかケンカするみたいですよぉ」
かえでは図星を突かれてドキッとしたが、そこはいつものポーカーフェイスで顔色を変えずに素直に従うことにした。


傍らの鉄橋を電車が通り過ぎる。ものすごい音で話を止めざるを得ない。
電車が過ぎるまでの間、かえではみこを見ていた。みこは体をむこう向きにねじって何かごそごそとしている。
「はい、コレ。来る途中で買ってきました」
電車が通り過ぎた後、みこは缶ジュースを2本出し、1本をかえでに差し出した。
全く予想していなかったことに、さすがのかえでもリアクションに戸惑ってしまう。
「篠原さん、オレンジは嫌いでしたかぁ?」
「そ、そんなことはないけど…。あ…、ありがとう…」
暑い上に気持ちが昂ぶってノドは渇いていた。冷えた缶を手にすると自然とあけていた。


みこはなかなか話を切り出してこない。買ってきたジュースを飲んでいるだけだ。
かえでも攻撃心をそがれ、なんとなく話せなくなってしまった。
風がすぅっと川原の草原をなびかせ通り抜けると、驚くほど心地よかった。もう夏なのだ。
かえでは今さらながら気づいていた。
『このコ、わりと普通にしゃべるんだ…』
それまでかえでの知っていたみこは、いつも俯いていてオドオドしてどんくさく、声すらめったに聞いたことがないような暗い少女だった。
「篠原さんは偉い人になるんですかぁ?」
だしぬけにみこが話し出した。しかし意味不明だ。
「え…?どういうこと?」
「いっぱい勉強して、いい学校に行ってぇ、それからお医者さんとか政治の人とかぁ…」
「そんなわけないでしょ。別にわたしは普通に…」
「でも、がんばりすぎですよぉ」
みこの真意がさっぱり読めてこない。それでもかえでは気になってしかたがなかった。
「普通の人は気にすることはあっても、ものすごく気にしたりしません」
意表を突かれ、驚くかえで。
返す言葉がなかった。今までみこが自分を見ていたのはバカにしていたのではないとわかったからだ。自分自身もっと気楽に考えることができたら、と思うことが何度もあった。
邪魔なプライドさえなかったら…。
「どうして怖い顔してしまうのですかぁ」
「あなたに言われなくってもわたしは!」
また鉄橋を電車が轟音をたてて駆け抜ける。
かえでは俯いてしまう。みこはクツひもを指でくるくるともて遊んでいた。
かえでは空になった缶ジュースをあおった。
「わたしはもういいです。篠原さんの番ですよぉ」
「えっ…、わたしはその…、もう別に…」
ゆっくりとみこが腰を上げた。
「篠原さん、わたしをイジメたいんだと思います」
「!!!」
「きっと、がんばりすぎてて、イライラしているから…」
「……だったらどうするの。早く逃げないと、わたしの方が足速いよ」
「ん〜…、できるだけ我慢します。ホネは折らないでくださいね」
「…わたしはやる時は本当にやるよ」
「ピンチになったら、そしたら逃げますねぇ」
骨折してどうやって逃げるというのだ。
できるはずがない。なぜなら、かえでは「普通」なのだから。みこはそこまで知った上で言っているのかもしれないとさえ思った。
…裏切れなかった。
「もういいから、座ってよ」
『わたしの負けでいい』、かえでは思った。
みこはまた草の上に腰をおろした。


人間嫌いであるはずのかえでだが、みこと対している事にストレスを感じていなくなっていた。
知らず知らずのうちにかえでも自然体で話している。
「いじめられるかもしれないってわかっててどうしてここに来たの?」
「…篠原さんすごく辛そうでした。きっと死んでしまいたいくらいに」
何もかも見透かされていたが、もはや驚かなくなっていた。
「わたしも死んでしまいたい時って、あんな顔してたと思います」
「…バカみたいでしょ、教室で吐いたくらいで死にたくなるなんて」
「わたしなんて何度もそんなことありましたよ」
「そ、………そうだったの。…死にたくなった?」
「はい。…たくさんイジメられたから。でも生きてますよぉ」
間延びした話し方だが、不思議とかえでには耳あたりがよく感じた。
『わたしは弱くなっている…』
「斉藤…、ごめんね」
思えば面と向かって人に謝ったのは初めてだった。
「いいんです。わたし、どうすることもできませんでした…。少しくらいぶたれても我慢するつもりだったのに…」
「バカ…。あなた、いいコなんだからわたしなんかにかまわないでもっと他のコに話しかければ?」
かえでは今まで言ったことがないようなことを口にしていた。
「わ、わたしは人見知りです。できませんよぉ」
「わたしみたいなとっつきにくい人間と話せて人見知り?ははははっ」
思わず笑ってしまっていた。
「とっつきにくいなんてことないですよ。篠原さんって…」
「……何?」
「……いいです。怒られてしまいそうですから」
かえではみこが自分をどう見ているか興味があった。
「怒らないから。…何?」
「…わたしは、いつもひとりです。篠原さんもひとりでいますよね」
「……それで?」
「…いえ。それだけです」
みこはきっと寂しかったのだろうと思った。そしてかえでは自分でも認められることができた、自分も本当は寂しかったのだ。それを認めるのはプライドが許さなかっただけである、と。
みこはそれを事もなげに越えて、かえでの心の中に入ってきた。
「……怒っていませんかぁ?」
みこはかえでの顔を覗き込む
「………ううん。すっっっごく怒った!」
かえではイタズラな笑いを浮かべると、みこにつかみかかりくすぐりだした。
「やぁ!あははは!やめてください!そんなとこ触らないでください!」
「ダメ!許さない。どうだ!」
「あははははははは!いやぁ!ハナが出てしまいます」
「出しちゃえ出しちゃえ!あははははは、ほんとにちょっと出した!あはははははっ」
「いやぁ!嫌わないでくださいー!」
かえでは思った。
『わたしはもういい。変われないかもしれない。
でも、このコには…このコだけには色んな事を話そう。そして、このコのおしゃべりももっと聞いていたい。このコはわたしを弱くできる。
そうしたら…、もしかしたら変わることも…。
斉藤…、ありがとうね。いつかわたしもあなたを助けるからね』


川面を少女たちの笑い声が流れていった。