ひまわり





16歳になった民夫が母校の小学校を訪れたのは、卒業して以来5年ぶりのことだった。
自宅からたいして遠くない所にある小学校は、その前を通りかかることもあったが、卒業してから門をくぐることは一度もなかった。
夏休みの昼下がり、愛犬の散歩コースをたまには変えてみようと、普段とは逆方向に歩き出したのは単なる気まぐれだった。
そして学校前を通り過ぎる時、なんとなくフラッと足を向けてしまっていたのだ。
犬の気の向くまま「犬なり」に歩く。夏休みの校内には遊んでいる子供を2〜3人見かける程度であり、人気はほとんどない。
クマゼミが盛大に夏を演出し、校舎の向こうには大きな入道雲が白く輝いている。蒸した熱気が歩く足元から立ちのぼってくると、日陰を選んで歩いて行った。
南校舎の横を通り抜けると中庭だ。視界が開けると懐かしさに包まれた。
と同時にそこで目にした光景に民夫は思わず足を止めてしまった…。




「暑ちぃーよ。もういいよぉ…、帰っちまおうぜ。夏休みだぞ、やってらんねぇよ」
6年生の民夫がスコップを手にすることもなく、足を投げ出したままへたりこみサボっている。
「ダメだよ、今週の当番はわたし達なんだから」
同級生で同じ緑化委員の七海が民夫をたしなめた。
「今週までに花壇の土、作るのがわたし達の仕事だよ。がんばろうよ」
民生は不満顔だ。
「なんでぇ…。オレら柵を作るのが担当だったんだぞ。四隅に杭打ってヒモ張って…。めっちゃ簡単だったのに。神聖なくじ引きに逆らいやがって」
「しかたないよ、先週5年生の子が都合でやれなかったんだもん」
「絶対にわざとだ。キッタネーよな」
重い腰を上げると民夫も堆肥の袋を引きずってきて撒きながら耕し始めた。
ぶつくさ文句を言いながらも汗をぬぐい、クワを振る民夫の様子を見て七海は薄桃色のリボンで縁どられた麦藁帽の下で笑顔を向けた。
「オレが耕すから片倉、鶏糞ふるいにかける役目な。オレ力使うから、オマエ臭いの担当」
「うん、いいよ。がんばろうね」



「片倉!おい!片倉、しっかりしろ!」
遠くから聞こえる声が少しずつ間近になりながら七海の耳に届いた。
ゆっくりと七海の瞳が開けられる。
「……あ、草野君?…わたし」
「ばかだなー。ヤベェんなら言えよ、ひっくり返るまでやることねぇだろ!」
七海は軽い熱中症で倒れてしまい、傍の木陰に寝かされていた。
「ご、ごめんね…。でも、わたし貧血気味でよくあることだから…」
「こっちは泣きそうになったぞ。…あ〜、びっくりした」
「わたし…、どれくらい、気を失っていたの?」
「えっと…、まぁ2〜3分くらいだけど、でも本当に大丈夫か?」
七海は顔色が真っ白い上に息遣いも荒く、全身にひどく汗をかいているようであった。どう見ても具合が良さそうには見えない。
「……なんか、気持ち悪い。ちょっと、ボタンはずさせてね…」
服のボタンを2〜3個弱々しい手つきではずすと、民夫は白い胸元から慌てて目を逸らせた。
「あ…、あのよぉ、オレ、なんか飲みもん買ってくるからじっとしてろよ」
照れ隠しの行動ではあったが、判断は正しかった。そのままでは脱水症状を起こしかねないところだ。
民夫は学校の近くの自販機まで一目散に走って行った。


民夫がスポーツドリンクを買って戻って来ると、七海が立ち上がって、辺りをふらふら歩いている。
「ばっ…、オマエ寝てろって言っただろ!」
慌てて駆け寄ると七海は民夫に倒れかかるように力なく崩れてしまう。全身の体重を預けているにもかかわらず、七海の身体は羽根のように軽くしか感じられなかった。
「草野君、気持ちが悪いの…」
民夫の肩にかけた手にわずかに力が加わり、指先で肩を握りしめた。
「吐きそうなのか?」
声もなくかすかにコクリと首をタテにうなずかせるとゆっくりとしゃがみこんでしまう。
「出しちゃったほうがいいぞ、きっと」
「…………」
セミの声で民夫の耳には聞き取れないが七海は何かを言っているようだった。民夫も姿勢を低くして聞き取ろうとしたが、それでもわからなかった。
「何?…苦しいのか?」
民夫に聞き取れたのは直前の一言だけだった。
「ごめんね……、嫌わないで」
俯いた七海はその場に少し吐いた。
民夫は丸くなった背中を献身的にさすった。
「しっかりしろ、オレがこうしててやるからな。大丈夫だ、大丈夫だぞ」


それほどひどい嘔吐の発作でもなく、七海の吐き気は治まっていた。
少し日が傾きかけていたが七海は頭に濡れタオルを乗せ、元の木陰で木にもたれかかって休まされていた。
「草野君…、何をやっているの?」
七海はかなり回復していた。笑顔も覗かせている。
民夫はその様子に安心して七海から離れてちょうど先ほど彼女が吐いた辺りの地面の土を掘り返しているところだ。
「うん、ちょっと、な…」
そこに肥料などを混ぜると、ポケットからひまわりの種を出して撒いた。
「記念だ、片倉がここでげーしたっていう。…へへへっ」
いたずらに笑う民夫に七海も笑いながら返した。
「もー、いじわる!…でもダメだよ、きっとイサンで土が悪くなってるもん」
「わかんねぇよ、こやしがきいて来年にはすげえ成長したのが…、なんてな」
次の年の夏には二人は中学生になる。結果はなかなか確かめられそうにないと思われた。
「……草野君、家は近くだったよね?」
「春日野神社の裏」
「そう…。わたしは川向こうだから中学は別っこになっちゃうんだね…」
七海が俯いてしまうと民夫もなんとなく黙ってしまう。
いつの間にか、賑やかだったセミの声も止んでいた。




そうして二人は卒業し別々の中学校に通っていった。卒業後、二人は会うこともなく5年が過ぎ、民夫は高校生になっていた。




犬に引かれて民夫は「はっ」と我に返った。
あれから5年、しばらくの間は思い出すこともあったが、騒がしい日常に埋もれていた思い出だ。


民夫の目の前には当時にはなかった花壇がある。
新しく作られた円形の花壇には、背の高いひまわりが群生していた。
そしてちょうどそこはあの時、民夫が種を撒いた場所だった。
『よくもまぁ…、こんなにも…』
民夫たちが卒業した次の年から、ここには夏になると不思議なことにひまわりが伸び、そのうち民夫らの後輩によって花壇が作られていたのだ。
逞しく伸びるひまわりには、七海もそんなふうに丈夫になってほしいと密かに願う民夫の想いがこめられていたことを思い出した。
花壇のすぐ前まで歩み寄り、ひまわりを見上げる。
鮮やかな黄色い花に七海を重ね合わせると大きな葉が風を受け、さわさわと揺れた。
風に揺れるひまわりと吸い込まれそうなくらいどこまでも深い青空。
民夫は眩しさに目を細めた。