ユーカリの木





『あれ?真っ白???』
視界が途切れ、瞬間的に浮遊感がした直後、グラウンドの方から身体にぶつかってきたように感じた。



「…ちゃん!大丈……!しっかり…、……!」
途切れがちな呼びかけ声が聞こえると、次第に意識が戻ってきた。
陸上部。練習中に軽い貧血を起こしてしまったようだった。
「由希ちゃん!」
1年生部員、進藤由希の元に駆け寄って来たのは3年生の中村教子だ。以前、やはりグラウンドで倒れてしまった時も介抱してくれたのは彼女であった。
「うぅ…、せ、先輩。すみません…」
「何、こんな時に謝っているの!無理しちゃダメだよ」
どうやら、意識が飛んでいたのは短い時間だったらしい。あたりの雰囲気はたいした騒ぎになってはいない事に由希は安心したが、それでもまだ平衡感覚はふらつき視界が定まらず、頭を抱えた。
教子は背中をさすり呼吸を整えさせながら、遠くにいる顧問に声をかける。
「せんせーい!わたし、進藤さんに保健室まで付き添うんで、新藤さんの荷物片付けておいてくださーい!」
遠くでグラサンがキラリと光ると、陸上部顧問が部員を蹴散らし、砂ケムリをあげながら猛ダッシュでやってきた。
「うぉぉぉぉ!オレの助けが必要かぁ!よぉぉぉし、任せろ!後始末は引き受けたぁ!さぁ、そこをどきたまえ、美しいキミタチ!」
さすが陸上部顧問、ケタはずれた脚力だ。意味もなく笛も吹いている。



由希にとって好きで入部した陸上部ではなかった。ただクラスの中で少し足が速いというだけで顧問が半ば強制的に入部させてしまったのだ。
元々、身体が丈夫な方ではなく練習中に何度も眩暈を感じ、酷い時には今回のように倒れてしまう。
辞めたい気持ちはいつも持ち続け、実際に退部届を提出したこともあったが
「キミには素質がある!もう少し続けたらどうだ、ん〜?」
と、顧問にまるめこまれてしまった。



「あの先生の言うことなんて…」
保健室のベッドに寝かされている由希は、横に付き添う教子にこぼしていた。
「まぁまぁ。あれでも見る目はあると思うよ。現に由希ちゃんの素質を最初に見抜いたわけだし」
「わたしなんて…」
入部以来、地味な走りこみとストレッチ。たまに計るタイムも上がってはこない。こんなことを続けて一体なんになるというのだろう。
「時計が出ないことなんて気にすることはないよ。わたしだって、ここ何ヶ月も更新できてないしさ」
「先輩とはレベルが違う話です」
教子は俯くと自分の掌を返しがえしに見ていた。
「そうだね…、わたしと由希ちゃんは別の話だもん」
「そうですよ、わたしみたいなノロマ…」
「ううん、違うの。わたしは自分の『壁』だけど、由希ちゃんは違うから…」
「そんな!先」
「いいの!聞いて、由希ちゃんはこれからなの」
教子は自らの限界を知ったことが少し寂しそうに見えた。
親指の爪先と中指の爪先とをこすり合わせ、俯いたまま話し続けた。
「あのね、由希ちゃん。ユーカリの木って知ってる?」
「……コアラのえさ」
「葉っぱはそうだね」
由希は教子が何を言いたいのかわからなかった。
「例えばね、苗木を植えたとするよ。ユーカリは2年経っても3年経ってもちっとも大きくならないんだって」
教子はずっと指先で爪をこすり合わせて話している。
「でね、そんな植えたことを忘れてしまった頃、急に成長するの。ものすごい勢いで」
「……」
「つまりそれまでは、ずぅっと地面の下で根っこを広げていたの。高く伸びるにはまず強力に根付かないと倒れてしまうから」
俯いて話していた教子が顔をあげ由希を見た。
「由希ちゃん、走るフォームすっごくキレイだよ。わたし、初めてみた時、見とれちゃったもん!」
「そんな…、本当にわたしなんか…」
「部員みんな由希ちゃんを逃がさないよ。ウチの部、期待の星だから」
確かにそんな雰囲気だ。由希が具合を悪くさせ、休んでいる時も周りの部員は優しい。
「でも…、でも、もし仮にそうだとしても」
「ん?」
「そうだとしても、それまでに何回、倒れるのかな…」
教子はうすく笑った。
「大丈夫、自分のペースでいいんだよ。無理はダメ!仮に倒れてもウチの顧問、なんか後片付け好きみたいだし、ねっ!」
「それが一番気になるんですけど…」
「案外、今頃由希ちゃんのジャージ着てるかもねっ。あはははっ」



「ギェーキシン!」
グラウンドに下品なクシャミが大きく響いた。



その後の由希は教子の「予言」通りすさまじく成長していった。
次々と自己ベストを更新し、あっという間に部の歴代レコードを軽々と上回った。



そして教子が卒業し、由希が3年になった夏。
400m走では寄せ付ける者もなく、2着を大きく引き離して地区大会を優勝。注目されながらの全国大会出場となった。


全国大会準決勝。由希はスタート直後に転倒。
彼女の足首は疲労骨折していた。


ユーカリの木は急成長する分、大木になってもその幹は驚くほど脆いことを教子も由希も知らなかった。