緑の角





「もう会えないね…」
茅原君恵がつぶやいた。
ぼくは遠くの空に視線を向ける。青空を白い雲がゆっくりと流れてゆく。
「そうか…。明日の昼くらいだっけ?」
「そう。昭ちゃんが学校で授業を受けてる頃、わたし…」
ざらしになったソファー。手近にあった青色シートを下に敷き、二人で座っていた。
小学生の頃、君恵とよくここで遊んだものだ。
「あの頃は『基地』って言ってたよね」
「よせよ、ガキっぽいから」
「だって、本当に子供だったでしょ」
「オレは…その、…そう、『アジト』だって思っていたぞ」
「あははっ、充分子供っぽいよ」



君恵とは家がすぐ向かいであり、幼稚園から一緒だった。
お互いの母親同士も仲がよく、いわゆる幼ななじみだ。
その母親から「茅原さん、今度引っ越すらしいよ」と聞かされたのはひと月ほど前である。
中学2年からは向こうの学校でスタートとなるようだ。
中学生ともなると、自然と意識しながらも疎遠になり、話す事もほとんどなくなっていた。君恵から直接聞かされることなく、母親から聞くまで知らなかった事だ。
君恵と話したいと思った。
しかし妙な気恥ずかしさと、それまで話すこともなかったところに、いきなり話しかけるという事にも抵抗があった。
君恵の転校が学校で正式に発表されたのは一週間ほど前。その日の帰り、ぼくの家の前で待っていた君恵に「今度の日曜、『基地』に来てくれないかな?」とだけ言われ、その場は別れた。



「なんか、中学生になったらわたし達、ほとんど話さなくなっちゃったね」
「オレにも男の付き合いがあるもんなぁ」
「ふふっ、何カッコつけてるんだか」
「オ、オマエこそ、話しかけてなんてこなかっただろ」
言葉より確実にわかりきった心情ではある。お互い小学生の時のように無邪気にはしゃげる年頃でもない。
「…うん。でも本当はわたし、昭ちゃんとお話ししたかったんだよ」
「だ、だったら普通に話しかければ…。オレにはべつに拒む理由なんてないし」
「え〜?できないよぉ…」
「ま、まぁ学校とかじゃアレだしな。変に勘ぐられて冷やかされるのがオチかもな」
「……わたしってほら、学校であまりお友達とかいないでしょ」
君恵が少し思いつめたような表情になるのを見てぎょっとした。何かとんでもないことを言い出しそうに思った。
「そそそそんな事ないだろ!あの、アイツなんだっけ。よく喋ってたみたいじゃんか」
「リッちゃんのことかな?あのコはその…、中学生になってからのお友達だから…」
「だからなんだよ。関係ないじゃん」
君恵は俯き、黙り込んでしまった。
『やっぱり、気にしているんだな…』




「ぎゃぁ!気持ち悪りぃ!!!怖ぇえ!!!」
その瞬間、クラス中が騒然としたという。
小学5年の音楽の時間、縦笛のテストとして一人ずつ、みんなの前でピアノの伴奏に合わせて吹くという授業をしていた時だったそうだ。
君恵はその時、ものもらいで片目に眼帯をしていた。
膿み方が最も酷い頃であり、目はほとんど塞がれた状態であったらしい。
縦笛を吹いている最中、眼帯のゴムが何かの拍子で解け、眼に当てていた眼帯がガーゼごと落ちたと聞いている。
神の悪フザケ。
その酷く爛れたような眼をクラス中に見られることになってしまった。


『お岩さん』
そんなアダ名をつけられ、クラスからつまはじきにされてしまう。
特に友達が少ないタイプでもなかったが、この頃には君恵に近づく者はほとんどいなくなってしまい、君恵自身もクラスメイトを恐れ、影の薄い少女になってしまっていたようだ。
当時ぼくはクラスは違っていたが、「お岩ー」とからかわれている君恵を数回見た事があった。君恵は黙って俯いていた。
元気だった頃の君恵をよく知っているだけに、ひどく心が痛んだ。
しかし同じクラスでもなく、ぼくと君恵が幼ななじみなどという事などほとんどの者は知らない。そんな所にぼくが口出しをすれば、君恵の立場を余計に悪くさせてしまうだろうという事は容易に想像できた。


そんな頃だったと思う。
「基地にいい場所見つけたんだけど、オレ一人じゃ運べないモンもあるから手伝ってくれよ」
ずいぶん久しぶりではあったが、君恵にそう声をかけた。
「……昭ちゃん」
君恵は照れくさそうにうなづいた。
基地作りは楽しかった。近くの粗大ゴミ捨て場から、二人でソファーを持ってきて、基地の外に置いた。
大きな木箱形の基地の上には青色シートが掛けられていて、雨をしのぐ事もできた。
シートをしっかりと結び付け直す作業も君恵と二人で行った。
「昭ちゃん、そっちしっかり引っぱっていてよー!」
「おうよ!」
「……よしっと。いいよー!そっち結んで!緩まないようにしっかりとだよ」
「任せておけって!」
息の合った共同作業だった。
基地内部に、やはりゴミ捨て場から拾ってきた色々な形の洋酒の空き瓶を並べたのは君恵だった。そのうちのひとつに傍に咲いていた草花を生けていた。
木箱の側面に穴をあけ、「『敵』が来たらここからこうやって攻撃できるんだぜ」とエアーガンを差し込む穴をあけたのはぼくだった。
無意識に『敵』などという言葉を使って、はっとした。
が、ずっと学校では塞ぎこみがちだった君恵から笑顔がこぼれているのを見て安心した事を覚えている。


そうして出来上がった基地に、こっそり二人で遊びに来てはとりとめもない会話をしたものだった。
昔からの馴染みであるから会話に遠慮はなく、お互いに気遣いはなかったと思う。
ぼくはそんな会話を楽しんでいたが、君恵はどうだったのだろう…?




「そう。わたし『お岩さん』だから!」
唐突に君恵が自棄になったように言った。
『あぁ〜、クソッ、やっぱり言っちまいやがった』
「昭ちゃんとはずっと小さい頃から遊んでたから、仲良くしてもらえて…。それで…、わたしはそれがとても嬉しくて…。それで…、それでね…」
「関係ねぇよ、そんなの。だいたいそんなアダ名、忘れちまえよ」
うまくは言えなかった。本当はもっと別の言い方で励ましたかった。
他に言うべき言葉があるような気がしたが、それが言葉にならない。


ふっと先日の英語の授業での事が頭に浮ぶ。余談で教科書にはない言葉を教わった。
『greenhorn』…青二才、若輩者。そんな意味らしい。
「…それであの、わたし…、嬉しくて。あの…、雨の日とか、ここで二人で話していたりしたよね…。それでね…、わたし………」
君恵も何か言いたげだが、やはり言葉にならないようだった。
春先前の風が赤く染まり始めた雲を流す様を黙ったまま見ていた。



そうして一週間後、君恵は転校して行った。




君恵が引っ越して、数週間がが経とうとしていた頃。
そんな春休みのある日、向かいの君恵の旧宅の取り壊しが行われていた。
少し春雨がパラつく中での作業だった。
玄関先に停められた父親の車にこもって、その様子を一人で見ていると君恵との思い出が浮んだ。思い出の中の君恵は笑顔である。
取り壊される様を見ているうちに「ああ、本当にもう行ってしまったんだなぁ」という気持ちが実感として湧いてきた。
『本当は明るいヤツだったんだ。きっと、向こうで友達だってすぐできるはずさ…。もう誰も酷い事なんて言いやしないんだからな』


こうして、全てが思い出に変った。


幸せを願ったのは、幼ななじみという事だけだったのだろうか。
「嬉しくて…、それで…」の後、何が言いたかったんだろうか、という事も少し考えてはみたが、霧の中に霞んだようにぼやけてしまうだけだった。
やはり、青二才の若輩者だからなのだろう。いつかわかる日が来るのかもしれない。


君恵との思い出は、春の雨と共にフロントガラスにはじけて消えた。