柏木家の人々





「ワリーワリー!遅刻だ、遅刻!」
三男の敏夫がドタドタと転がるようにやって来た。
「親父、何の用事だって?」
齢82歳になる弥三郎が寝かされる布団を囲むように、すでに二男二女の兄弟が集まっていた。これで三男二女の五人兄弟が揃う。
「敏夫、もっと静かに入って来られないのか」
長男の幸一は落ち着いた口調で嗜めた。



弥三郎の呼びかけで、上から長男・幸一、次男・晃、長女・冴子、三男・敏夫、次女・照美が揃ったが、弥三郎の直系の子供だけであり、それぞれの身内はこの部屋にはいない。
弥三郎と同居の幸一の妻、春江は孫の安奈を連れ外出を言い渡されていた。
つまりこの家には弥三郎とその子供たちだけだ。


「父さん、何も春江まで外に出す事も…。父さんの介護はいつも春江が」
「あぁ、そうじゃな…。春江さんにはすまないと思っとる。が、どうしても柏木家の者である直系にしか話せん話でのう…」
「何だよ、何だよ!大事な話って!」
ソワソワする敏夫が口をはさむ。
「敏夫、オマエはいくつになった?子供の頃から落ち着きがなかったが、変わっとらんの」
少しバツが悪そうに敏夫は頭をボリボリと掻いた。
畳にフケが落ちると、冴子がキッと睨んだ。


弥三郎は自分を囲む子供達を見回すが、白内障でどこまで見えているのかよくわからないようだ。
「父さん…」
「まぁ、そう慌てるな、これから順を追って話す。いいか、皆よく聞いておくようにの。それと、…ひとつ約束を守ってほしいのは、これから話す内容はここに居るもん以外絶対に話してはならん。その為に春江さんも他の家族もここには呼ばなんだ。ワシら親子だけじゃ」
どうも大事な話というのは本当らしいと一同が理解した。
「約束を守れんもんはここから出て行ってくれ…」
兄弟はお互いに皆を見合わせた。
「…約束できるか?」
五人兄弟は誰も立ち上がろうとはしない。
「…そうか、約束だぞ」


「お父様、そんなに具合がよろしくないの?」
冴子が弥三郎の顔を覗きこみながら尋ねる。
「一昨年…、まぁ皆も知っておる通り脳溢血で…。のう、幸一」
「はぁ…、いち早く春江が気づいたのが幸いでした」
「全くじゃ。あのまま逝っとたら、こうして大事な話も託せなんだわけじゃて。春江さんには助けられた」
大きく息を吐く。
「すみません。ぼくはあの時は大事な裁判の弁護を…」
晃が眼鏡を押さえ、かぶりを振った。
「私もちょうど海外の方へ…。ごめんなさい、お父様」
「フン、冴子はいつだってフラフラどこかへ出かけてるからかけつけられなかったんだ。ぼくと一緒にしないでほしいね!」
「あ、晃兄さんは国内だったでしょ!それに裁判当日だったはずじゃなかったはずよ!弁護士の仕事だって健太さんがほとんど引き継いでいるって聞いているわ!」
「息子は…、健太はまだぼくがサポートしていないととてもじゃないがあの時の大事な弁護は」
「そうね。それにひきかえ、私の篤は研究所の所長ですから!もう自立しているから私も安心して」
「遺伝子組み換えなんて!…くだらないことさ。昔からやってる事の焼き直しだ。そうそう新しい発明なんてできるもんか」
「なんですって!」
冴子が立ち上がりかけるのを隣にいる照美が止めた。
「お、おねえさん、そんな口喧嘩してる場合じゃないでしょう」
幼い頃から晃と冴子は成績がよく、そして仲が悪かった。
幸一が嗜めた。
「照美の言う通りだ。…全く、お前らは昔から顔をつき合わすたびに」
「ははははっ。兄貴がいつも止めに入って、冴姉ぇに引っ掻かれてたもんなぁ」
「敏夫!お前はなんだ、あぐらなんか…。お前!靴下ちゃんと履け!」
敏夫は腰を降ろすと靴下を半脱ぎにする癖があった。
「いけね!まぁ、気にすんなよ。へへっ」
「敏兄さん、足臭いよ…」
照美が顔を歪める。
「うるせぇな。もっと嗅ぐか?納豆と同じ臭いだぞ。わはははははは!」
「ヤダ!近づけないで!」
冴子もヒステリックに声をあげる。
「やめなさい!不潔なものを振り回さないで!」
「お前ら、いい加減に戦艦大和!」
弥三郎が声を荒立たせた。
「子供の頃とちっとも…、ごろごろ…!おっ!おっ!かはっ!」
「…冴子、そこのティッシュ取ってくれ」
「幸一兄さん、でも、お父様は痰がからんで」
「だからよこせと言ってるんだ!」
「ひぃっ!まさか痰をティッシュなんかで!」
冴子は大袈裟に肩を反らせた。
「いつもやってることだ。春江もな」
眉間にシワを寄せ、片側だけの眉が吊りあがる。
「お義姉さんが!ヤダ!私、あの方の触ったものなんて触れないわぁ!」
「冴姉ぇは小せぇ事で細けぇんだよ。痰なんてもなぁ、そのへんに吐くもんだ」
「敏夫は人間として恥を知らなさ過ぎるのよ!汚らわしい!」
「いいから、早々とティッシュをよこせ!!」
幸一が怒鳴ると、口をもごもごされていた弥三郎の喉がコクンと動いた。
「うへぇ!親父、痰飲んじまいやがった!」
「まるいっ!」
「丸い?」
「ごほーん!『不味い』と言ったんじゃ!」




縁側で猫の「こはる」が欠伸をしながら、ストレッチのように伸びをすると、そのまま春の陽射しの中で丸くなった。
穏やかな陽気の庭先に咲くソメイヨシノの花びらがひらりと舞う。
「父さん、もうそれくらいにして…」
ぐちぐちと小言を言って叱る弥三郎を幸一が恐る恐る止めに割った。
「むぅ…。こんなんで、大丈夫なのか、お前たちは」
「そこはぼくが束ねます」
長男らしく幸一が胸を張る。
「…ふむ。まぁ、問題はそこなんじゃがの」
説教が収まり一同は安堵したが、話の核心らしき事を口走らせた為、部屋が静まった。
「もし幸一が死んだらどうなると思う?」
『死にかけてんのはオマエだよ!』
一同が心中で同時に思った。
「まさか、ぼくはまだ59ですよ」
「来年は還暦じゃの。そう先の話でもないわいな」
幸一が後頭部を掻く。
「父さん、言っている意味がよく…」
「む…。ワシも脳溢血で倒れてからこの有様じゃ。まだまだ寿命だとは思っとらんが、少し痴呆がきておるのも自覚はしとる」
少し「ゴホン」と咳をすると、冴子がビクッと反応した。
「そこで、こうして皆にボケる前に話そうと思ったわけじゃ」
長い前フリが終わり、弥三郎が話し出す。
「はっきり言うぞ。この柏木家にはの、とんでもない財宝が代々伝わっとる」
「!!!!!!!!」
一斉に皆が前傾姿勢をとった。
「だがの、その財宝とやらは誰も…、拝んではおらん」
溜息と共に一同は元の姿勢に戻る。
「しかし、あるものはあるのじゃ!これは間違いない!」
また全員が前のめりになる。
「まぁ、その財宝はだれも拝んどらんから、それが何かはわからんのだがの」
また溜息まじりに肩を落とす。
「だがの、有名武将の掛け軸だの小判だのそんなもんの何倍ものお宝だという事ははっきりしとる」
ぐぐぐっっと弥三郎に向かって前傾姿勢。
「柏木家には高戸台に山を持っとるのは知っておるな。あの山のどこかにある」
その山には兄弟が幼い頃よくキノコ狩りに連れて行かれたものだ。
「でも、父さん。あれだけの広大な山のどこかと言われても…」
「地図がある」
「イヤですわ、住宅地じゃないんですから山の地図なんてどこまで正確かなんて」
「地図と言う言い方はおかしいかの。言い換えれば暗号文書に近いかもしれん」
「へっ!じゃ、なんだい?その暗号とやらを解かなきゃわかんねぇって事じゃねぇか」
「敏夫、いくらお前でも字ぃくらい読めるじゃろ。柏木家のもんなら、そう春江さんでも、孫の杏奈が見てもわかるようになっとる。ただし、柏木家に縁のないもんにはな〜んのこっちゃさっぱりわからんようになっとる。面白かろ?」
一同は囁き合いながら色々と考えを巡らせ合った。
「これはワシも見た。そして場所は実に適確に記されとった」
「お父ちゃんはそこに行ったことあるの?」
「ある」
「なのにその財宝を拝まないのはおかしな話ですね」
「それでいいんじゃよ…。『とんでもない財宝がある』それだけを確認しといたらの」
「で、でもよぅ、売りとばしたら!」
「敏夫!出て行くか?ん?」
「ちょっ…、なんでだよぉ!」
「よいか!代々伝わる財宝は売りとばすもんじゃねぇ!守るもんじゃ!!」
ここまで話すと、弥三郎は黙り込んだ。
兄弟はざわざわと、仲の悪い晃と冴子ですらここは互いに意見を求め合った。
その様を弥三郎は眺めていた、白内障の目で。
「あぁ、そうじゃ、そうやって話合ぅたらいい…」



「どうじゃ?話はまとまったか?ここまでの話で皆がひとつにならんようではこの先は話せんぞ」
一同は真剣な面持ちで、長男・幸一が代表し全員の意志を述べた。
「父さん。ぼくらは皆独立し、これと言った不自由のない生活をしています。もちろん、財宝を売れば莫大なお金を手に入れられる事も承知しています。しかし柏木家の血を引く者として、ご先祖の意思は継ぐつもりです。いえ、必ず次の世代に引き継いでみせます!」
弥三郎は真っ先に敏夫を見た。
そこには毅然として正座し、弥三郎が見たことのないような敏夫がいた。
「……なるほどの。言伝え通りじゃ。馬鹿げた話じゃとワシも思ぅとったが、この話を聞いた柏木家の血を引く者はいかなるカブキ者とて意志を継ぐそうじゃ。これが財宝の力かの。これでワシも本当に財宝の存在を信じることができるわ。ワシら兄弟の代は皆真っ直ぐなもんばかりじゃったからの。あっけないもんじゃったわ」
ここで晃がひとつの疑問を持った。
「でもお父さんは七人兄弟の三男だったはず。なぜ、叔父さん達が…、長兄の宇一叔父さんが引き継がずに?」
「死んどるじゃろが、皆」
「…まさか、それじゃお父様、それは最後の生き残りが…」
「む、そういう事じゃ。財宝を継ぐのは最後に生き残った者の子供たちが権限を持つ事になる、責任を持っての。長男だの末娘だの関係ない。最後の生き残りが柏木家直系となるんじゃ」
兄弟たちの眼光が一つになる。皆、同じ眼となった。
そこには兄弟の上下や仲違いなど、一切関係のない平等な血縁関係があるだけだった。
例え誰がいつ命尽きようともその意志は『柏木家の一員』としてバトンを託される。
そうして最後の生き残りがその子らに引き継ぐ事になる。
一同、使命感に満ちた眼光だった。
「……これで安泰じゃ。先祖の意思はお前たちに託された。ワシも安心して」
「父さん!」「お父さん!」「お父様!」「親父!」「お父ちゃん!」
兄弟が同時に「待った」をかける。
「ん?どうかしたかの?」
「どうもこうも、その肝心の地図、暗号文書の所在が!」
「ぉお!そうじゃったの」
『ボケくさって、このジジイ!』
兄弟同時に心中で毒づいた。
「そうじゃそうじゃ、ここからが本当に面白いんじゃぁ〜」
弥三郎は二枚目気取りに「ニヤリ」と笑って見せたが不気味なだけで、むしろ邪悪ささえ感じられた。
『怖っ!』


「…それで父さん、面白いというのは?」
「修造を覚えとるかの?」
「お父さんの弟さん、四男の修造叔父さんですね」
「そうじゃ。あやつはおかしな切れ者での。昔から人と全く違った発想をしてワシらを驚かせたもんじゃ。…そう天才。ハチローと同じじゃの」
イチローと言いたいらしいな…』
「それまではの、暗号文書は仮の形でやはり兄弟の上のもんのとこに保管されとっての、死んだら生き残った中の一番上のもんに引き継がれておったそうじゃ」
今度は一同「うんうん」とうなづく。
「が、そうするには予め他のもんがそのありかを知っておらんといかん、本人は死んでしもうとるわけじゃからの」
「よく子供に見つけられたりしなかったわね。ウチの子なんてあちこち荒らして」
またしても「ニヤリ」と笑う弥三郎。
『その顔やめい!』
「その通り、そういう危険もある。鼠に齧られたり、第一火事にでもなってみぃ」
「濡れちまってもいけねぇなぁ」
「あ、そりゃ大丈夫じゃ、マジックで書かれとる」
「お父様!フザけてらっしゃる場合じゃないですわ!」
「フザけてなぞおらん。お前ら古文書が読めるとでも言うのか?」
一同「ハッ」とっした。
「…書き換えられとるんじゃよ、その代の言葉での。ちなみに今あるのはワシが書き直した」
「父さん!それじゃ兄弟が皆、文書を持っていれば済む話でしょう!元の文書にこだわりがないのなら」
「バカもん。それだけ見つかる可能性も高くなるじゃろ、いくつも複製あれば」
「そうか…」
「ん?いや…、待った待った!おかしいですよ、そもそもどうして文書にしておく必要があるんです。今日のように皆に口頭で話せば、形として残らないじゃないですか!引渡しの手間だって省ける」
「…そうじゃな。さすがに晃は鋭いわ。ワシらの時も修造がそれに気づきおったわ」
冴子がキリッと歯ぎしりをしてそっぽを向いた。
「今、お前たちは話を聞いたばかりじゃから、固い意志を持っとるじゃろ」
一同の眼の色は揺るぎがない。
「が、人間ちゅうやつは時が経てば、心が変わってしまうもんなんじゃ…。どうしても金に困るもんが出るやもしれん」
ジロッと視線が敏夫に集中した。
「よ、よせよ!そんな目でオレを見るなよ!」
「敏夫だけじゃねぇ。幸一、お前にもありえんとは限らん。人間じゃからの」
幸一は唇を少し噛みしめた。
「どうじゃ?他のもんは変わらん自信があるか?どれだけ時が経ち金に困っても」
しん、と静まり皆が俯いてしまう。
「まぁ、そう気にせんでよいわ。…そこで話の続きじゃ。暗号文書はそれを手にしたもんしか見ることができん…、となればまずは幸一じゃな」
「ぼくが…」
「文書を手にすればわかるもんじゃ。『使命感』じゃの。先祖からずっと引き継がれた重みっちゅうのは相当なもんじゃて。口頭伝達は確かに形としては残らん。が、希薄になるんじゃよ、『使命感』がのう」
黙してしまうが、皆はそういうものなのかもしれないという妙な説得力を感じていた。
「忌まわの際に口頭伝達?そんなもん、事故死したらいまいじゃ」
「…わかりました。そこで文書を手渡す方法をとったんですね」
「そうじゃ。そこで話を戻す。ワシの先代まではそうしとった。宇一兄さんが死によった時、ワシは文書を引き継いだ。次男の昌司兄ぃも長女の絹姉ぇも死んどったからの。弟や妹もようけ死によったわ。……戦争じゃよ」
昭和が平和な時代というのは大間違いである。終戦の昭和20年までは日本もキナ臭い国であった。


「修造は結核で死んだ。覚えとるもんもおるかしれんが」
「私が2つ頃だったと聞いてますわ」
冴子の記憶にはなかったようだが、ここまでが兄弟のギリギリなラインだ。
「修造は死期を悟ったのか、サナトリウムにワシを呼んだ。そこで聞かされたのが文書の『隠し場所』じゃ」
「それは家ではない場所ですか?」
「無論。聞いた時はたまげたもんじゃて。修造、一世一代の名案じゃ」
「屋外…、となると、埋めるのか?いや、宅地開発で掘り返されてしまう」
「財宝と同じ山ならどう!山はこの柏木家のものでしょ」
「フン…。そんなところじゃろ。山に埋めたところでそれこそどこに埋めたのかわからんようになる。だいたい隠し場所の文書の意味がなかろう。本末転倒じゃ」
「埋めるのは違うようですね」
「じゃ、山がダメなら海はどうでぃ!こうブイにくくりつけてよぅ!」
「アホか。論外じゃ」
「だとしたら、やはり建物のどこか…、か」
弥三郎はじらしながら楽しんでいるかのようだった。
「今でも文書はそこにある。そしてそれはここにおるもん全員に言うつもりじゃ」
幸一がホッとしたように胸をなで降ろした。
「一人のもんに託すのは『使命感』を持ってして守るじゃろうて。が、寿命を縮める。修造はそう言っとったわ。皆に言ってしまえば、晃が言ったように口頭伝達するのと変わらんかもしれんが、ワシは信じる。血迷って財宝を手にしようとしてとしても、文書を手にしたとたん正気に戻る事を。修造の考えが正しいとワシは信じる」
「修造叔父さんはそこまで考えていたんですか…」
「その為にはどうしても永久保存される場所が必要じゃ」
「お手上げだわ。そんな場所あるのかしら?」
「日本が沈まん限りは安全じゃな」
「国宝だ!国宝の建築物!」
「幸一の限界はそこまでじゃな。おいそれとワシらが立ち入れはできんじゃろ」
弥三郎は含み笑いをする。
「誰でもその気になれば…、孫の中学生の杏奈でも簡単じゃ」
「……。わからない不可能だ」
さすがの晃も降参した。
「オレはとっくに白旗だぜ」
敏夫は鼻毛を抜きながら言った。
「後は照美だけじゃな」
「や、やだ。わたしなんかに、そんな」
膝の上で拳をぎゅっと握ると幸一が全面降伏した。
「父さん、ダメです。ぼくたちには…」
「そう。それでなければ、ワシらが考えてわかるようじゃ意味がないんじゃ」
弥三郎は咳払いをひとつすると、大きく息を吸う。
「聞いて驚くな、と言う方が無理な話じゃな。その場所というのは」
「ハァァァァァックショーーーーン!!!!!うぅ〜い」
敏夫が大クシャミをした。
「ずるずるずる…。ん?わぁ!」
敏夫の鼻から青洟が冴子のスーツの背中まで繋がっていた。
敏夫の声で振り向いた冴子がそれに気づく。
「びぃゃああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
あらんばかりの大声で冴子が雑巾を引き裂くような声で叫んだ。
「おい!何をやってんだ!早くどうにかしてやれ、照美!」
「ひぃ!汚いよ!わたしヤダ!あ、晃兄さん!!」
「晃ぁぁぁぁ!!!はっ!早く@☆〒#鶴亀3◎Я▲£Beω♪θすq†%☆^*ψy■!!!」
「ちっ!」
舌打ちしながら晃が立ち上がりかけた時、弥三郎の尿で満たされた尿瓶を蹴り上げる格好になった。
「おわぁとぉ!」
それは冴子を直撃し、発酵しかけた尿があたり一面派手にぶち撒けられた。
「くせえええええ!!!!!!!!!」
「オーホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホ」
狂ったように冴子が笑いだした。
「くはっ、こりゃたまらん!!照美!窓を開けろ!」
「お前らぁぁぁ!!!ワシの話はまだ」
「待て!照美そこの窓は開けるなぁ!」
幸一が叫んだ時にはすでに窓は開け放たれていた。
スズメバチが部屋に数匹飛び込んできた。照美の頭上には巨大な巣が軒先にぶら下がっていた。
「いっやああああああ!!!!ハチよ!ハヒ!!!」
舌を噛みながらビシャンと窓を閉じたがハチは部屋の阿鼻叫喚に興奮したのか勢いよく直線的に飛行し、攻撃角度で飛びかった。
「ぎゃっ!」
洟をぶら下げたままの敏夫が悲鳴をあげた。
「ダメだ!死んじゃまう!!オレは刺されたあ!!!」
刺されてはいない。ハチの体当たりが首すじをかすめただけだ。
「ホホホホホホホホホホ」
冴子は涎の糸をだらしなく垂れたまま笑い続けている。
「お静かに!いや静かにしろぉ!!」
いちいち幸一が言い直す。
「とにかくハチを出せ!」
命令するだけで晃はハチを避けるのに必死だ。
「死んじまう!!!オレは死ぬ!めぐみー!!!芳江ー!!!」
「落ち着け!ハチはこっちが動かなければ攻撃を」
そう言う幸一の鼻に1匹のハチがとまった。
「わぁ!!!お助け!誰か取って下さい!!」
「騒ぐんじゃにゃい!ワシの話を聞け!聞かんと後悔するじょ」
箪笥の上にあった殺虫剤を見つけた照美がそれに飛びついた。
「やめろ!そんなのもんでハチを刺激するな!」
殺虫剤は新品で缶は開封されていない。晃の制止も聞かず、照美はもどかしく開けようと必死だ。
「コラ!貸せ!!」
晃が近づきそれを奪い取ろうとした刹那、晃の顔面に殺虫剤の噴射を浴びせた。
「ぎゃああああああああ!!!!!」
「ホホホホホホホホホホホホホホ!!!!!」
「死ね!死ねぇ!コイツらぁ!!!」
照美が狂ったように殺虫剤をあたりかまわず噴射する。
「目が!目がぁ!!」
晃がヨロヨロと縁側の方へよろめくと弥三郎の腹をモロに踏みつける。
「お前らワヒのはな!おげぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」
胃を踏まれた弥三郎は反動で上半身を少し起こした状態で吐寫物を冴子めがけて勢いよく嘔吐した。
冴子は白目を剥いて直立すると、そのまま棒のように障子戸と共に縁側に倒れた。
「フギャーーーーーーーーー!!!」
その下敷きになった「こはる」がパニックを起こし、爪を立てたまま幸一に飛びかかる。
「こはる!やめなさい!痛いいたい痛い!!!」
「もう食い逃げはしません!神様!死にたくないです!」
「死ね死ね死ね!みんな死ねぇ!!!」
「けふ…、けふ…」
軽く咳き込むと、弥三郎はありったけの声で一喝しようと大きく息を吸ったが、あたりの殺虫剤の霧を肺一杯に吸ってしまった。
「;;;;;;;;!!!」
「こはる、離れなさい!」
抗う幸一は顔を紫色にした弥三郎の頭をボールのように蹴ってしまう。
「こ、殺される…」
動けないはずの弥三郎が布団から這い出した。
その足に敏夫がしがみつく。
「親父ぃ!逃げねぇでくれよぉ!オレ一人で死ぬのはヤダよぉ!」
「は、はなへ…、むぎゅっ!」
そこにまたふらつく晃が弥三郎の後頭部を踏みつけた。
「見えない!何も見えない!!」
「死ね!死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!!」
ハチはとっくに冴子が倒した障子戸からどこかへ飛んで逃げていたが照美は殺虫剤を噴射し続けている。
「こはる!パパだよ!!落ち着きなさい。ごはん食べますか?」
今度こそ最後の雄叫びを上げようと弥三郎が怒鳴ろうと、上を下への騒ぎになっている子供たちに向き直った。
「おっ…!」
一声で止まってしまう。
「し、しまっ…た、血圧……」




照美が空になった殺虫剤の缶を畳に転がし、へたりこんだ。
「晃、目は大丈夫か?」
猫の引っ掻き傷だらけの顔で、幸一が晃を気遣った。
「兄さん…。よく考えたらぼくは眼鏡をかけていたんだ。自分で目を閉じてしまって、何も見えなくなったのかと」
「オレ、刺されてねぇや!へへっ!ビビったぜ」
敏夫は先ほどの泣きごとなど忘れ、からから笑っていた。
冴子は汚物にまみれて、気絶したまま倒れている。
照美は放心状態だ。
あたりはこぼした尿瓶と殺虫剤でベタベタになって異様な臭いを漂わせていた。
「……酷い目に遭ったな」
ハンカチで顔を拭き、我に返った晃が弥三郎が布団にいないことに気づいた。
「お父さん?お父さんは?」
敏夫が部屋の端、襖のあたりに倒れている弥三郎を見つけると声をかけながら這い寄った。
「親父ー?おーい、もう大丈夫だぜ。………親父?」
「どうした、敏夫?」
幸一が目を向けると、弥三郎はぱっくりと口を開けたまま白目を剥いて固まっていた。
「父さん!」
晃が咄嗟に胸に耳を当てた。
「!!!心臓が…、止まっている!」
「待ったぁ!オレに任せろ!消防団で心臓マッサージの蘇生術で学生を生き返らせた事だってあるんだぜ!」
敏夫は勢いよく勇んだ。
幸一も晃もこういう事には対応できないタイプだった。見守るしかない。
両手を心臓あたりに添えると
「せーの!」
で一気に力を込めた。
ボリボリボリッ!!!
「ぅわあ!いけね!アバラ全部折っちまった!」
当たり前である。老人の骨と若者の骨の強度はまるで違う。
あわあわと幸一と晃は胸部が潰れた弥三郎を、大口を開けたまま見ていた。
搾り出すように晃が声を出す。
「きゅ、きゅ…、救急車…」
幸一が大声で叫んだ。
「坊主を呼べ!いや、救急車を呼べ!!!」




「変死」という事で解剖に回された弥三郎だが、死因は脳溢血であった。
皆がそれぞれにどこかしら弥三郎に「何か」をしていた意識があった為、ホッと胸をなでおろした。「致命傷」を与えたのは自分ではないかと…。


しかし…
その後、柏木家の財宝を発見できた者は誰も現れなかったという。