黒い煙





ひどく気が進まない葬儀の参列だった。
彩乃の祖父、源一が脳溢血で他界したのは4日前の事だ。
幼い頃から彩乃は祖父が苦手であった。特に睨んでいるわけではないのだが、ギョロっとした目で一瞥されただけで竦みあがってしまったものだ。
成長すると共に彩乃の中で苦手意識が「恐れ」に変わってゆき、作り笑いも困難になる。それとなく自然さを装いながら避けることを覚えるようになっていた。
正直、源一が他界したという知らせを聞いた時は不謹慎ながらも安堵に似た気持ちを感じてしまった。



何より彩乃が源一を恐れるようになったのは、小学校3年の夏…。
父親が重度のヘルニアで手術入院をすることとなり、母親がその看護につかなければならなくなった。夏休み中だった彩乃は田舎の祖父宅に預けられた。
その夏の記憶さえなければ彩乃も源一を異常なまでに恐れはしなかったはずだ。


父親の入院、両親と離ればなれの生活。心細くなっていた少女に対し、祖父源一の接し方は酷いものだった。
事の始まりは宿題に取り組んでいるところへ、源一が現れ「どれ、見てやろう」と座り込んだ時だ。
祖父を恐れる彩乃である、一人で片付けた方がずっとはかどるものなのだが、断る事のできる雰囲気ではなかった。
源一は特に教えることもなく黙って見ている。
シャーペンが止まりがちになる彩乃に、「なんだ、こんな計算もできんのか」と源一が苛立ち始めた。
「う…、ううん、違うの!できるの!」
と言ったものの、頭の中は焦りで考えられる状態ではなかった。普段から恐れている源一と相対しているというだけで勉強どころではなくなっていた。
『早く答を書かなきゃ…』
焦れば焦るほど混乱してしまい、いつまで経っても答がはじき出されない。
突然、源一は立ち上がり激昂した。
「この、ウソツキめ!わからんなら正直に言ったらどうだ!」
「ち、違うの。…あの、ちょっと待って、まだ考え中で…」
「言い訳をするな!このひねくれ者!」
平手打ちを乱打された。
ずっと一人で泣きじゃくる彩乃に祖母は「おじいちゃんに謝っといで」としか言わなかった。



「さぁ、もうお別れだからね…。最後におじいちゃんの顔を見ておくのよ」
焼香の際、叔母に促された。
「アヤちゃんは小学生の時、おじいちゃんにお世話になったんでしょう」
中学生になった彩乃は、その場の空気から断れないということはわかっていた。
棺桶から覗く祖父の顔。青白くシワ枯れ、鼻に綿を詰められたその顔を一瞬見ただけで強烈な吐き気がこみ上げてきてしまう。
仏様なんてものじゃない。畏怖の念を抱いていた「源一の死体」以外の何物でもなかった。
口を押さえ俯く彩乃に、叔母は悲しみによる感情の昂ぶりと受け取ったようだった。



田舎での夏、知らない土地で過ごす彩乃は友達の家に遊びに行くなどといったこともできず、部屋にこもることが多かった。
一人で外出するだけで源一はあからさまに不機嫌になるからだ。帰宅すると理不尽な理由で決まって体罰を受けた。
祖母はどこに行くのか、日中は外出する日が多かった。家の中には彩乃と源一という日も少なくなく、そんな時には特に酷い虐待をされたものだった。
持ち物をきれいに片付けていないとか、廊下を歩く音がうるさいとかいった些細な理由や言いがかりで怒りをかった。
小柄だった彩乃の足首を掴んで逆さに持ち上げ縁側から庭に放り出されたり、物差しで叩かれる折檻を受けたり、時には手近にあった置時計を投げつけられて頭を直撃したこともあった。
なぜ源一が虐待を繰り返すのか彩乃には理解できなかった。
祖母に相談しても無駄だということはわかっていた。顔に青痣ができていても無関心な祖母は虐待を知っているはずだが、全くそのことには触れなかったからだ。



経文が読み上げられ、線香の煙が漂う葬儀場に身を置くことが苦痛でならなかった。
先ほど目の当たりにした源一の遺体が目に焼きつき、ずっと吐き気のむかつきがついてまわっていた。
席を立とうとも思うのだが、おとなしい性格であり目立つことを苦手とする彩乃にはそれがなかなかできずに我慢し続ける。
せめて母親の隣であれば言い出せたのかもしれないが、隣に座る父親は沈痛な面持ちで目を赤くし、彩乃のことまで気が回らないようである。なにしろ自分を育てた実父源一の死であるのだ。
経文は永遠に続くかと思うほどに長く感じられた。



その暑い夏の日は彩乃にはどうしても忘れることができない。
やはり部屋にこもって宿題の日記を書いていた時である。
蝉しぐれが賑やかに、開け放たれた窓から部屋の中まで響いていた。
彩乃が綴る日記帳がスッとかすかに暗くなる。
気づくと彩乃の背後に源一が立ち、覗きこんでいた。
『いけない、これを見られたら!』
彩乃は身の危険を感じ咄嗟にそれを隠したが、源一に後ろから髪を乱暴に鷲掴みにされて日記帳を取り上げられてしまった。
彩乃自身も虐待の事は隠しておきたいと思っていた。それでも「お家に帰りたい」「おじいちゃんはきらい」といった本音が控えめに綴られていたのだ。
無言でページをめくる源一に『殺される!』と思った。
ところが源一の反応はあまりに意外なものだった。
ニコニコと目を細めた笑顔の源一は彩乃の頭に手を置きなでた。
「…おじい…ちゃん?」
「彩乃…、そんなに嫌だったのか?まぁそうだろうなぁ、おじいちゃんはお前に酷いことばかりしてきたからなぁ…」
そんな自覚を持っていて、なぜ虐待を繰り返してきたのかさっぱり理解できない。
「でもな、彩乃がおじいちゃんを怖がるから、ワシはそれが辛くてしかたなかったんだよ」
笑顔で話す源一は頭をなでる動きを止めた。
「もう仲直りしようじゃないか、彩乃」
そのまま源一に抱き寄せられた。
いくら言葉で謝罪されたところで、刻み込まれた恐怖心が薄らぐことはなかった。
全身に悪寒が走る。
そして、源一は彩乃の口に自らの唇を強く重ねた。
「嫌っ!」
咄嗟に突き飛ばすと、源一は箪笥に後頭部をしたたか打ちつけた。
彩乃がはっとした時には、源一の顔は真っ赤になり先ほどまでの笑顔から豹変した形相になっていた。細められていた目がカッと開き血走ったギョロ目になる。
「それでもワシの孫か!」
怒号をあげ、彩乃に掴みかかり衣服を力任せに引くとシャツのボタンがいくつかはじけ飛んだ。
彩乃は恐怖で声にならない息遣いをあげ逃げ出そうとしたが、源一は執拗に足を払うように手をかけ転ばせた。
畳に顔面を打つとそのまま源一が覆いかぶさる。
引き裂くように着ていた服を剥ぎ取られるうちに彩乃は声もあげられず、涙だけが流された。
部屋の中の必死で抵抗する彩乃の荒い息遣いと、源一ともみ合いになる畳の音、衣服の裂ける音は、狂ったように鳴り響く蝉しぐれにかき消されていた。
下着姿になるまで剥かれると、手掛かりを失くした隙に源一から逃げ出した。階段を降りようとした時だ、後ろから追ってきた源一に突き飛ばされた。
身体がバラバラになるかと思うような衝撃と共に階段から転げ落ちる。何度も頭を打ち、視界がぐるぐると回った。
彩乃の身体は一階の廊下に勢いよく叩きつけられる。
その方向は恐ろしくて見ることもできないが、源一がトントンと階段を降りてくる足音が聞こえた。
眩む頭を押さえながらすぐ近くのトイレに入ると鍵をかけ、そのまま小窓から外へと逃げ出していた。


長く辛い夏休みが終わろうとする頃、ようやく自宅に戻る彩乃だが、祖父から受けた虐待は両親には話せなかった。子供心にもこういう事は自分の胸の内に固く閉ざすものだと思うのだった。
身体の痣も河原の土手から転げたものだと源一は説明したそうだが、彩乃もそれを肯定した。



火葬場への移動の為、乗り込んだマイクロバスの中ではずっと気分を悪くさせていたが、源一の遺体が焼かれる時になると、やっと少し落ち着きを取り戻す事ができた。
『これでおじいちゃんは完全に消えるんだ』
彩乃にとって源一は忌まわしい存在でしかなかった。
あの日の記憶も一緒に焼き尽くされるようにと願う。


やがて、源一の遺体は火葬されると、遺族は建物の外で世間話を交わしていた。
非業の死を遂げた若者でなく、老人の死だ。悲しみよりも久しぶりに顔を合わせた親類が談笑を交わすのも無理な話ではない。
彩乃もそんな親族達の中にいると、ちょっとした感嘆の声があがった。皆、空を見上げている。
煙突からどす黒い煙が真っすぐに登っていた。
「おかしいなぁ…。普通、老人は脂が少ないから焼いても白い煙しかあがらないらしいんだが…」
「ジイさんはまだ血気盛んだったんだし、若いんじゃないのか?そういう意味じゃ」
下卑た笑いと共に、そんな会話が彩乃の耳にも届いた。
『おじいちゃんはやっぱり、枯れてなんていなかったんだ!』
空を分断する深い溝ように、一筋の黒い線が長く伸びている。風に流されると、その筋が空に拡散され広がった。
空中に撒き散らされた煙の粒子が自らの身に降り注いでまとわり付くような感覚を覚える。まるでそれはあの日、源一に抱きつかれた時と同じ感覚だ。
空一面から源一のギョロ目視線が睨みつけているような恐怖に襲われる。
もはや限界だった。
彩乃はハンカチで口元を押さえ、走り出した。
トイレのドアを開けると同時に、便器に向かって激しく嘔吐した。
身をよじり、我慢していたものを全て吐き出す。
涙が溢れ、鼻からも胃液の糸を垂らせ、苦しさのあまり声を抑えることもできなかった。
セーラー服のスカーフが吐き戻したもので汚されてゆく…。
それでも治まることのない吐き気は胃袋を捩るように彩乃を苦しめた。
彩乃はいつまでも便器の中に吐き続けていた。