落日の坂道





平成××年3月28日。左右田(旧姓)文恵が死んだ。
一本の電話によって、私はその事実を知らされた。



北村上小学校、昭和××年同期卒業生。私と文恵の繋がりといえばそれだけにすぎない。
小学校を卒業して以来、30年近くの時が経っていた。
それにもかかわらず、私のところに知らせが届いたのは、半年ほど前に偶然再会していたからだ。


営業の得意先である町工場経営者の見舞いに訪れた大学病院で、やはり入院治療していた文恵を見かけた。
30年の時を隔てても、一目で鮮明に当時の幼顔とダブらせることができた。
「左右田…、さん?左右田文恵さんじゃないですか?」
私の呼びかけに少し戸惑いながら、しばらく間をおくと、
「……池添君?そう!池添…、あのぅ……」
と言ったものの、さすがに名前までは完全には出てはこなかった。
「すみません…」
「いや、無理もないですよ、小学生の時以来です。苗字を憶えていてくれただけでも恐縮で…。池添誠です」
「あぁ、そうでした。本当にすみません」
申し訳なさそうにする彼女だが憔悴した表情から、やわらかい笑顔がこぼれた。


腎臓を患い、ひと月ほど前から入院しているとのことだった。
ひどく懐かしがる文恵は元気だとは言えなくとも普通に行動はできるようで、
「もし時間があれば少しお話しませんか?」
と、屋上へと誘ってくれた。
現在住んでいる所、職場のことなど。お互い「自己紹介」のような近況を話し、そうした中で彼女が、数年前に夫を事故で亡くしたことや子供には恵まれなかったことなども聞かされた。
そして現在の入院生活。決して「幸福」とは言い難い生活ぶりに胸が痛んだ。


「最近、村上町の方へは?」
「はい、実家がありますから…。池添君はどうです?」
「そうだなぁ…、20年以上は立ち寄ってないかな」
「そうですか。ずいぶん変わりましたよ、あの辺りは」
小学生の頃は壊れかけたような木造の家が立ち並ぶ鄙びた町だった。
それでも今はもうなくなってしまったであろう「風景」を思い起こすと、少し淋しくも思えた。
「あの頃の池添君は、…その、…かっこよくて」
「いやいや、気を使わんで下さい。当時の私は酷いものだった…」


私にとって小学生当時の思い出話は恥ずかしくてたまらない。が、避けられない話題でもあった。
転校生であり、極度な人見知り。友達など一人としていなかった。「目つきが悪い」それだけの理由でたまたま廊下ですれ違った教師にビンタをもらったこともある。
それが今じゃ営業マンだ。わからないものである。


「ロンリー・ウルフって感じでした」
「あはは。あだ名は『野犬』って言われてましたけどね」
生きるという事は戦い続ける事であり、自分しか頼れる者はいない。そう信じていた私にとってケンカは日常の事だった。ケンカと言うより集団リンチに近かったが。
「左右田さん、あ、いや…」
「いいんですよ。むしろそう呼んでほしいですよ。本当に懐かしい」
「失礼。どうも女性の方との昔話はぎこちない」
かゆくもない頭をかいた。
「あなたは当時、クラス委員でしたね。私がいじめられていると、いつも先生を呼んできてくれた」
「わたしの目がどこまでゆき届いていたのか自信ありません。知らないところで、ずいぶん酷い目に遭っていたのではなかったかと…」
「いえ、そんな。正直助けてもらってばかりで…。それなのに私は素直じゃなかった。いつも『先公なんか呼んできやがって!』と強がってばかりいて…。恥ずかしい話です」
まさか、こんなことを言う日が来るとは当時は夢にも思ってもいなかっただろう。
「そうですね。わたしはそのたびに池添君に怒られてしまいました」
「すみませんすみません。いや、本当に恥ずかしい…」
互いに顔を見合わせ笑いあった。
「あはは…。でもほら、わたしだって池添君に助けてもらったじゃないですか。憶えてます?」
「?…何かありましたか?」
「ほら、自転車ですよ。わたしの自転車を直してくれたでしょう」
突然弾けたように思い出された記憶。
それはオレンジ色の光に包まれた光景から始まった。




西日に照らされた坂道の下。あれは下校時だったのだろうか?いや、多分塾の帰りだったのであろう。そんな時間の夕暮れ時だった。
倒れた自転車と、見慣れた少女がしゃがみこんでいた。
「…よぅ。転んだのか?」
急に声をかけられた少女…、文恵はビクッと肩を跳ね上がらせ、ゆっくりと振り向いた。
「い、池添君…」
ヒザを擦りむいて血が出ている。
「チェーンが…、外れて絡み付いてしまって…」
声が震えていた。
「よせよ、そんなのいじってたら手が汚れるだろ。それより、足のケガなんとかしろよ。汚れた手で傷には触れられないからな」
私もしゃがみこんで絡みついたチェーンを掴んだ。


「ふん、簡単なもんだ。…カゴ、曲がってるな。ハンドルも向きが捻じれている」
手近にあったボロ布で油にまみれた手を拭いて、ひしゃげたカゴを整え、足でタイヤをはさんで、ハンドルを真っ直ぐに戻す。
「こんな感じか。…どうだ?足は痛むのか?」
ふと、文恵の方に顔を向けると、足にハンカチを巻きつけ佇み、じっと見ていた。
「な、なんだよ。…まぁ、立てるんならいいや。歩けるのか?」
黙ったまま、コクリと頷くとそのまま俯いてしまう。
「この坂は急だからな。そのケガじゃ自転車はダメだろ」
文恵の家は知っていた。
道端に放り出されたままの赤い手提げバッグをカゴに入れ、自転車をひいて登る。
俯いて黙っていた文恵はシクシクと泣き出していた。いつものおせっかいでしっかり者の委員長は小さな一人の少女になっていた。
「どうしたらいいのか…、わからなくて、怖かったの…。日が落ちてきて、暗くなってしまうし…」
「そうか…。まぁ、一人って不安だもんな…」
はっとして私はすぐに言い直した。
「ち、違うぜ!男は別だ!徒党を組まなきゃ何もできねぇヤツらなんかに負けやしねぇよ!」
私は洟をすすりあげている文恵と並んで歩いた。
文恵の家は坂を登った高台にあり、私の家はさらにその先、坂を下った雑然とした家並みに紛れていた。
「ごめんね、ごめんね…」
泣きながら文恵はそう繰り返していた。
「オ、オレん家もこっちだから…」
多くを語れない私と泣き止まない文恵。落日の坂道は行き交う人もなく二人っきりだ。辺りの風景はハリボテの舞台のようだ。明らかなミスキャスト。私は決してこんな事をするような少年ではなかった。
やはり心のどこかで文恵に対しての感謝の気持ちがあったのだろう。
当時は素直にそれを認められず、妙に落ち着かなかった事を覚えている。


彼女の家は当時の私が住んでいた借家とは比べものにならない立派で大きな家だった。しゃれた玄関のドアの前まで来るとハンドルを押しつけた。
「じゃ、じゃあな。大事にしろよ、足のケガ」
とだけ言い残し、私は全力疾走でその場を立ち去った。




セピア色と言えば聞こえがいい。断片的であり、オレンジのモノトーンな記憶だが、並んで歩いた文恵の横顔だけは鮮やかに思い出すことができた。


「そうだ。池添君の住所と電話番号、よかったら教えてくれないかな」
「えっ、それはいいですけど」
「退院したらまた会ってください。あ、今度は奥さんも一緒に」
「あ、ははは。そうですね、女房も連れて退院祝いをしましょう」
「本当ですか!嬉しい!楽しみにしています」
「約束しますよ」




それが文恵との最後になってしまった。
末期の癌だったそうだ…。
そして、その時メモした私の連絡先を病室のアドレス帳に記していたという。生前に親交があったと思われたのも無理はない。




葬儀の帰りの電車はずいぶんとすいていた。礼服、黒ネクタイの私が乗るこの車両も4〜5人の乗客がまばらに座っている程度だ。
昼下がりのこの時間帯は乗客のエアポケットのようなものらしい。
葬式だから当たり前といえばそうだが、寂しい葬儀だった。参列者も少なく、友人という立場の者は私一人だけだった。それだけで生前の彼女の生活を窺い知ることができる気がした。
『病院で彼女が見せたやわらかい笑顔は、たとえ私なんかでも懐かしい顔に出会えてきっと本当に嬉しかったんだろう…』
私にしてみればあまり楽しくもない過去でも、彼女にとっては人生で輝いていた時代だったのかもしれない。
せめてもう一度だけでも彼女の見舞いに行くべきだった。まさか癌だったとは…。
あの時のやわらかい笑顔を思うと悔やんでも悔やみきれない。
私は頭を振り、その考えを払った。今となってはどうにもならないことなのだ。


突然、車内がパッと明るくなる。
電車はカーブを描き日差しの向きを変えると一面の菜の花畑を走っていた。
春の日差しを照り返し、広大な黄色の絨毯がまぶしいほどに光り輝いている。
同時に、かつてあの町にもこんな風景がよく見られたことを思い出した。


『……左右田さんも、天国の花畑に着いたんだろうか……』


車窓から黄色と緑の大海原が流れてゆく様を見ていると、いつかの西日に照らされた坂道が甦る。
そうだ…、文恵の家は高台へ続く坂の上。
彼女を見送っても私の家はまだその先にある。


やがて電車は鉄橋を渡り、ビルの立ち並ぶ賑やかな街へと入って行った。