野枯まで (かえでシリーズより)





かえでは軽く舌打ちをした。
『次のバスまで1時間半か…』
肩に降り積もった雪をはらい、待合い小屋の戸を開けた。
今どき珍しい薪ストーブにやかんが焚かれ、湿った蒸気に身を包まれる。
ふと傍らを見るとベンチに少女が一人いた。中学生だろうか、セーラー服にコートを纏い、薄桃色のマフラーを巻きつけている。その顔色は白く、むしろ不健康そうな蒼い顔色に見えた。小柄で病弱そうなくらい痩せ細った身体…。
『…似ている』
かえでは一人の少女の面影を重ねた。




かえでがみこの死を知ったのは先月のことだ。事故で他界してから1年以上が経っていた。


斉藤みこ…。中学の同級生、いや友達だった。かえでにとっての初めての友達であり、たとえ友達であった期間が1年足らずであろうともその関係は親密で、中学当時、人間嫌いのかえでだったが、みこだけには心を開くことができた。「人付き合い」を教えてくれた恩人でもある。みこがいなかったら、高校で美咲や桜とも友達にはなれなかったはずだ。
みこは中学を半ばに遠くの地に転校してしまった…。
しばらく続く文通。しだいに落ち着きをみせ、それでも季節の折などには長い手紙が送られてきた。
みこは携帯電話を嫌い、所持していないと手紙にあった。着信音が苦手で心臓に悪いそうだ。
「斎藤らしい…」かえでは微笑ましくそんな文面を読んでいたものだ。文通などという古めかしい手段はかえでも気に入っていた。
そんな連絡がパタリと止まって一年以上が経っていた。
『おそらく向こうで新しく友達ができて、元気にやっているんだろう』
人の波に流されながら生活してゆく者には自然なことだと思った。
それでもみことの繋がりを断つ事はかえでの望むところではなく、手紙を書いて送ったのが先月の事。
その返事に送られてきたのは母親からの手紙。みこの死についてであった……。


葬儀の参列はかなわなくとも、墓前に手を合わす事はしたいと思った。
みこの遺骨は横浜の両親から遠く離れた、小さな村にある本家の墓に納められていると聞き、店を両親に任せ一人でこうして雪深い村まで訪れた。
美咲にも桜にも、このことは告げず小さなバックひとつで旅に出た。


N県野枯村。白い山脈に埋もれるようにその村は佇んでいた。
みことの別れから…、6年になるだろうか。「死」を知らされた時に思い出されたのは最後に見た姿、去り行く電車内で大泣きするみこの様だ。結局、あれからの再会を果たすことは叶わなかった。


古ぼけた墓石の少しコケむした小さな墓にみこは納められていた。19歳で他界した女性とはほど遠く、似つかわしいものではなかった。
降り積もった雪を払い、民芸物屋で物珍しさから買った笠を乗せてみる。なんとも滑稽な有様になったが、この雪にさらさせ続ける事には気がひける。
花束を立て、かじかむ手で線香に火をつけると北風が意地悪く邪魔をした。
墓前に手を合わす…。
みこの死を知らされた時から一貫してかえでは冷静さを失わずにいた。この時も静かに目を閉じ冥福を祈るだけだった。
立ち上がると墓に一礼をし、そこを後にした。


墓地からバス停まで歩くいくばくかの時間。その間…
『人は何故、天国なんてものを考えたのか?………好きな人が死んだからだ。
死んだ人はそこにいて、生きている者はいつか会うことができると信じた。そうして人は天国を発明したんだ』
ある過去のベストセラー小説の一節が頭をよぎった。
生き残された者の儚い願い。しかし、
『死んでしまえば、灰以外何も残さない。「無」だ』
天国も幽霊もありはしない。かえではそう考えていた。
山間の盆地は暮れかけていた。雪は静かに降り続き、雪原は青白くぼんやりと外灯の光を反射していた。



不意に小屋にいる少女が激しく咳き込んだ。
ふと、かえでは現実に引き戻される。
この小屋には二人だけだ。
「…大丈夫?具合悪そうだけど?」
「ゲホッゲホッ…。す、すみません。平気です…」
「バス、まだ一時間以上は来ないみたいね…」
「あ、わたしは山の上の方だから30分くらいで…。でも、この雪でバス上がって来られるかなぁ…」
この停留所は終点ではない。 通過点の停留所には上りと下りのバスが来る。
「学校の帰りなんですけど、バスの途中で具合悪くなってしまって、ここで一旦降りて休んでしまったんです…」
「そう。大変だったね…。まだ具合悪いの?」
「…少し。すみません、こんな話をしてしまって」
純粋に土地の者ではなさそうである。訛りがない少女にこんな辺鄙なところで暮すようになったのは、何か理由があるのだろうかと考えた。
「バス通学にはなかなか慣れなくて…」
やはりどこか別の土地から流れて、このあたりに住むことになったようだ。
「おねえさんは…、このあたりの方ではないですよね」
「……旅人」
「こんな観光地でもなく、温泉もないようなところにですか?」
「友達だった人のね…、お墓参り」
「ごめんなさい、変なこと聞いてしまいました」
「かまわないのよ」
「こんなところだから、土地の人はみんな顔見知りみたいなもので、その…」
「よそ者は目立ったかしら」
「いえ、その、…キレイな人ですから」
「あら、お上手ね。ふふっ」
特に人見知りな少女でもないようで、気分を悪くさせている様子ではあっても、人なつっこく話しかけられた。


小屋の中はやかんの蒸気の音と、途切れながらも二人の会話が流れた。
少女はハンカチを出すと口元にあてがった。
「顔色、悪いわね。苦しいんじゃないの、本当は?」
「…なんだかちょっと、頭痛が」
そのまま少女は口元を押さえ、俯き黙ってしまった。
ベンチにうずくまるように身をかがめると、小柄な体がさらに小さく見える。


『あのコもそうだった…』
無意識のうちに、思い出さないようにしている自分にその自覚はあった。思い出せば、感情の洪水に押し流されて溺れてしまいそうな気がしたのだ。
それでも少女の姿をぼんやり眺めていると、どうしても重ね合わされてしまう。
かえでは視線をそらせ、薪ストーブで蒸気をたてているやかんに目を移した。


しゅん……しゅん……
蒸気の音だけが小屋の中で規則的に鳴っていた。
「あの…、ちょっと失礼します。頭痛がどうも…」
少女がハンカチで口元を押さえたまま立ち上がる。少し足早にして戸を開けて外に出た。
蒸された空気の悪い小屋の中より、寒くとも外の空気に晒された方が気分もすぐれてくると考えたのだろう。


5分ほど経っただろうか、少女は戻っては来ない。
かえでも立ち上がり、小屋の外に出てみた。
少女は小屋のすぐ脇で、やはり体を小さく丸めて震えながらうずくまっていた。
「大丈夫?いつまでもこんな所にいたら風邪ひくわよ」
「でも、まだ少し頭が…」
「…そうね。閉めきった待合室は空気悪いからね」
かえでは手をこすり合わせ、息をかけていた。
そんな様子を見て、少女はゆっくりと立ち上がる。
「おねえさんこそ、こんな所にいては風邪ひきますよぉ」
「いいの。付き合うわ」
「でもぉ…」
「あぁ〜。急にわたしも頭痛が…。ふふふっ…」
少女もつられて微笑んだ。
フラッシュバック。その刹那、記憶が弾ける!
その笑顔に今度こそはっきりと、みこの笑顔が重なった。
「…?どうかしたんですかぁ?」
「あ…、な、何でもないの」
心の内を悟られないように、かえではとりとめのない話をもちかけた。
話せば話すほどに、「現実」と「錯覚」の区別がおぼろげになってゆく。
閉鎖された待合室ではなく、こうした室外の自然にいる事…。それが少女にとって居心地のよい空間だとしたら…。
自然体で話すこの様子が、少女の本来のものだとしたら…。
硬く凍てついたはずの足元から、浮遊感にも似た「あの日の草原」のやわらかな感覚が蘇える。
『…草の匂いがする。あの頃の空気だ』
「ねぇ、アナタ…」
「えっ?なんですかぁ?」
「……。い、いえ、…その、…頭痛はどう?」
「あはっ。忘れてましたぁ」
この口調だ!確信に近いものを感じた。
『ガァァァァァァーーーーーーーーー!!』
突然、鉄橋を行く電車の轟音を聞いた。
「ねぇ、バカな話だと思うけど」
かえでがそう言いかけた時、カーブを曲がったバスのライトが近づき、二人を照らした。
「あ…、バス、上がってこられたみたいですね」
…定刻通りに着いたバスを恨めしく思った。


「どうも、ありがとうございました」
ペコリと少女が頭を下げる。その顔色は待合小屋の中でのそれよりすっかりよくなっていた。
「……じゃあね。気をつけて」
「はい。かえでさんもお元気で」
プシュー…
バスのドアが閉まる。その向こうで少女は、どうしてそんなに手を振るのだろうと思うほど、大きくかえでに向かって振っていた。
動き出したバスは曲がりくねった道を登り、山の上へ走り去って行くと視界から消えた。
胸元で手を振るかえでは、その動きをピタリと止めた。
『えっ?…わたし自分の名前、名乗ったかしら!』
身に着けている物に名前が書かれているはずはない。
『やっぱり、まさか!いやでも…!』
小柄で病弱そうなくらい細い身体。人見知りそうでいて、実はけっこう饒舌であり無邪気で少し間延びしたあの語り口。
何もかも似ていた。
だが、みこがもうこの世にいないことは現実である。
『…きっと、風にあおられた言葉の聞き違い』
かえではそうして無理矢理に結論づけ、聞き分けのない自分を納得させた。


あたりは元の青白い雪原の風景だった。…北風が駆け抜ける。



コートの襟を立てて、小屋に戻りバスを待つ。
しゅん……しゅん……
蒸気の音だけが、やはり規則的に鳴る。
少女のいなくなった一人きりの小屋はひどく淋しいものとなってしまった。


「がんばりすぎですよぉ」
みこの声が聞こえる…。
「普通の人は気にすることはあっても、ものすごく気にしたりしません」
『優しかった、あのコは確かに優しかった。優しさだけを残して、わたしの前から姿を消した』
別れの時と同じ感情の洪水。あの時と同じように、無理に抑えていた感情の洪水。
叶うことが不可能であるからこそ抑えつけていた想いが一気に押し寄せる。
『会いたい!もう一度、たった一度でいいから会って抱きしめたい!』
儚い願い。にんべんに夢と書いて「儚い」と読むのは、あまりに救われないではないかと思った。
届かない想いに、溢れる涙は止められそうにはなく…。
限界だった。
耐え切れずに、ベンチに身体を叩きつけるように伏してしまう。
小屋の中、かえでは叫びのように響く大声で泣き崩れた。



野枯村を後にするバスが里へ降りて来るまで…。